勝軍寺勝軍寺の正式な名前は、椋樹山大聖勝軍寺で、現在は高野山真言宗に属しています。太子町の叡福寺が「上の太子」、羽曳野市の野中寺が「中の太子」、そして、ここ八尾の勝軍寺は「下の太子」と呼ばれ「河内の三太子」として親しまれています。 蘇我氏と物部氏の神仏戦争の時に、聖徳太子子が、渋川の阿刀の館にいた物部守屋を滅ぼすにあたって、信貴山の毘沙門天に祈願し、四天王を祀ってその加護により守屋を討って、戦勝を得ることが出来たので、難波の高台に日本仏教最初の四天王寺を建立し、この渋川に勝軍寺を創建して、自身十六歳の植髪(うえがみ)の太子像と四天王像を安置したという。 本堂の太子殿には、太子植髪像を安置し、その脇に弓矢を持つ四天王像を祀っている。これは4人の関係者をおのおの四天王になぞらえたもので、右から持国天(蘇我馬子)、多聞天(秦川勝)、広目天(迹見赤檮)、増長天(小野妹子)の四体となっています。 勝軍寺のお寺の門の前にも四天王と聖徳太子の像がありました。 山号のもとになった神妙椋樹(しんみょうりょうじゅ)です。 大聖勝軍寺は、『日本書紀』に示されない伝説が伝わっています。 物部討伐軍に参戦した聖徳太子が物部軍に追われたとき、椋(むく)の木が二つに割れて皇子の身をかくまったというのです。 その椋の木が境内に祀られている。推古天皇は椋樹と大聖聖徳法王の勝ち軍を讃え、神妙椋樹山大聖勝軍寺という山号と寺名を賜ったといいます。 お寺の中には、塔や八角堂があります。 なんだかちょっと夢殿に似ていてますね。 物部守屋に関連した史跡が寺院の境内や境内の近くにあります。 たとえば、大聖勝軍寺の境内には、物部守屋の首を洗ったという守屋池や馬蹄石があるのです。 付近には、鏑矢塚、弓代塚、それに物部守屋の墓があります。 この物部守也のお墓はpleさんが、「あるいみ、日本一のパワースポット」と呼んでいる場所です。 以前私が見たNHKの『その時歴史が動いた』で蘇我氏のことをしていたのですが、番組の最後にテーマ音楽とともにあらわれたのがこの物部守屋のお墓でした。 pleさんのご指摘の通り、伊勢神宮、大神神社、住吉大社、出雲大社、春日大社などそうそうたる神社の名前が並んでいます。 そういえば、仏教反対の物部守屋ですからお寺にお墓があるわけにはいかないですよね。 だから、お墓の前に鳥居があるのは当たり前のことなのですよね。 今は無くなって更地になっているのですが以前、道を挟んで前に「八尾市立病院」がありました。 私は結婚した当初八尾に住んでいたのですが、盲腸になって、その病院に入院をして手術を受けたことがありました。 ところが、勝軍寺も物部守屋のお墓もちっとも気がつかなかったのです。 物部守屋は神仏戦争の時に仏教に反対した悪者のように言われることもあるのですが、本当は日本古来の神教を守り大切にした業績も大きいのではないでしょうか。 私は、お寺も好きですが神社がもっと好きなので物部氏についてもなんだかかわいそうに思ったりしてしまいます。 以前八尾に住んでいたということも、影響しているのかも知れませんが…。 そういった意味でも、物部氏はちょっと気になる一族です。 夫も結婚するまで八尾に住んでいたのですが、どちらも全然知らなかったようです。 今回二人で、来ることが出来て本当に良かったです。 懐かしい八尾の町を歩き、お墓参りも済ませて気持ちのいい一日になりました。 このあと、夫と二人で一心寺さんへ行き串カツを食べたのでした。 |☆。・:*:・゚'★,。・:*:・'。・:*:・゚'★,。・:*:・゚'☆。・:*:・゚'★,。・:*:・'。・:*:・゚'★,。・:*:・゚'☆ 明日から、宮崎に行ってきます。 鹿児島空港からえびの高原、霧島神社、天の逆鋒に行き、JRで高千穂まで行き、真名井の滝、天の岩戸、天の安河原などにも立ち寄るつもりです。 お天気が気になりますが、楽しんで来ようと思っています。 しばらくブログはお休みになるかと思いますが、帰ってきたらまたよろしくお願いいたします。 では、行ってきま~す。 ジャンル別一覧
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